覆水が盆に返らなくて後悔先に立たずに後の祭り

あみだくじ もしもにかこけいはないのよ
ダイエット120kg→65kg 39%→13% 目標達成

先日2回めのワクチン接種を終えた。

1ヶ月後に心臓手術を控えている。普段通っている内科の主治医の先生からも、来月の手術を担当してくださる外科医の先生からも、手術前の接種を勧めていただいた。

ちょうどタイミングよく、地元の自治体が基礎疾患枠での予約を受け付け始めていたので滑り込んだ。人口十万人足らずの地方都市であったこともあり、予約から2回目までをほぼ1ヶ月程度で終えるという駆け足でした。

伝え聞く情報によれば、ここから3週間ほどで重症化を防ぐための抗体が作られるということです。私がおそらく人生で最も体力が低下しているであろう入院期間中を、十分な抗体を持って迎えられるというのは、やはり安心感が違うものです。

ワクチンについては、冷静なものからオカルトチックなものまで反対意見もあるものの、斯様な状況の自分にとっては最早打たないという選択肢はありません。

ただ、ワクチンはワクチン。

感染した場合に重症化を防ぐことにはなりますが、感染しないわけではありません。

症状が発現しづらいということは、もちろん他人に感染させにくいということでもありますが、可能性としてそれは「0」でもありません。

私はおそらく今後もマスクをし、手を洗い続けるつもりでしょう。この大騒ぎが収まるまでは。

仮定の話ですが

コロナのニュース

これは、ときおり私が想像する映像です。ためしに作ってみました。

もしもウイルスの感染経路を特定する技術があったならばという、もちろんフィクションです。

○や△などの記号の部分も本来の名前が入ると想定して下さい。フィクションではありますが、同姓同名の方がいらっしゃった場合に不愉快に感じるといけないので伏せ字にしただけです。

GPSのように死者のウイルスが誰から誰へと感染していったのかが全てわかったらという世界。

自分を経由して感染していったウイルスによって誰かが死んだとわかったとき、人はいったいどうするのでしょうか。

毎日のように報道される「死者○名」という数字。

あの無機質な数字は無関係な人間にとってはほとんど意味を持たないただの数字です。ですが、ご本人やその周りの方々にはとてつもなく大きな喪失です。

感染しても重症化するのは老人だけ、コロナはただの風邪という声はいまだに少なくないし、1年以上のコロナ禍でみんなが疲弊する中、むしろその感覚が増えているような気さえします。

でも、もしも、こんな映像が突然流れ始めたら。

技術的にもこのような映像が現実的に放送されることは、今回のコロナ禍ではないでしょう。

例えそのような技術が確立されたとしても、それを公にするということが倫理的にどうなのかという部分は、おそらく想像を絶するような大議論を呼びます。

個人的には、こんな報道はされるべきではないと思っています。自警団まがいも跋扈し、私刑がそこかしこで行われるに違いありません。そんな社会は許されるものではありません。

でもこれが実現せずとも、というかしないだろうけども、この映像を常に想像することで、自分が成すべきことが見えてくるのではないだろうかと思っているのです。

私がこぼした盆の水

晩年の父は病気の後遺症で下肢の感覚を失いました。車椅子での生活です。

免疫機能も弱くなっていた上、尿路ストーマに排便障害もありましたから、日常生活での衛生対策は徹底していました。

コロナ禍が始まった頃、消毒液が品薄になったことがありましたが、我が家には数本の消毒液の在庫がありました。父のカテーテルや手指を消毒するために備蓄してあったものが残っていたのです。

とかく雑になりがちな本人に成り代わり、外出時、トイレ使用時、入浴時等、常に念入りに手洗いや消毒を管理するのが私の日常でした。ここまで衛生管理を徹底する以前には生死を彷徨ったこともありました。その後も年に1度程度、父は感染症で38度ほどの発熱をするということはありましたが、衛生管理を徹底することで命に関わるような状況はなくなっていました。

そんな生活が10年近く続くうち、私は大きなミスをしました。

どんな特殊なケースも、日常化すると麻痺します。

父の健康状態を完全に把握していたはずの私は、たった1つの父の異変を見落とします。

いえ、見落としたのではなく、見過ごしました。

父の、ある体調不良に気づいていたにも関わらず、よくあるちょっとした不調だろうと見過ごしました。

結果、ほどなくして父はこの世を去りました。

死亡診断書に書かれた直接の死因はそれではありません。でも、きっかけはほんの小さな体の不調でしたが、それが身体に大きな負担をかけた結果、父は死にました。

私を責める人など誰もいませんでしたが、それでも、私は明確に「あのとき適切な対処をしていれば父は助かった」と未だに思っています。

「私が父を殺した」とまでは言わないまでも、「私のせいで父の死期が早まった」とずっと思っています。冷静に考えればそんな単純なものではないのだけれど。

父はとても優しい人だったので私との生活を感謝を持って過ごしてくれていました。

私もそれを自覚していたからこそ、介護生活の中でも充実感を感じていることが出来ました。

でも、最後の最後でそれを全部自分で帳消しにしてしまいました。

父が死んでからすでに3年経っています。

今ここで、この出来事をこうしてWEB上に書き記すことが出来ている時点で、すでに私はこの出来事をある程度自分の中で解毒することが出来ているのでしょう。

でもやはり、この1件は私に大きなトラウマを植え付けてしまったことには代わりはないのです。

もしも明日が晴れならば、あいっする、ひっとよ、

ごめんなさい、深刻な話すぎてこっ恥ずかしくなってちょっとふざけました。話を戻します。

自分が意図せずとも、ついうっかり、ほんのちょっと魔が差したことによって誰かの人生を終わらしてしまったかもしれないという経験を、私は2度としたくありません。

自分が嫌な思いをしたくないだけです。そこには他人への思いやりとか配慮とかは実はないのかもしれない。ただただ、自分が傷つきたくないだけです。

だから私は手を洗います。

マスクをつけます。

ワクチンを打ちます。

「そんなの意味ないのに」という顔で他人に一瞥されても入退店時は手指を消毒します。

医療関係者でもない私が、自分の、そして他人の命を守るために出来ることは、ただそれだけです。

飲食店を営んでいらっしゃる方などは大変なご苦労、ご心労をなさっていることでしょう。苦渋の決断をしなければならないケースもあるでしょう。

でも私は違います。

ただただ、密を避け、マスクをし、手を洗うだけでよいのです。それだけで何かを防げるのであればやらない理由などありません。

「もしも」あのときこうしていれば・・・などというセリフは意味をなしません。

起こってしまったことなど変えようがない。タイムマシンはないのだから。

「もしも」は未来に向けて使う言葉です。

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