第13話 その日

手術室のマスク

ぐっすり眠りました。快眠です。

この日は6時半ころには目が覚めました。寝起きもスッキリ。体調は万全です。開幕日に絶好調で調整を終えたピッチャーの気分です。やったことないけど。

午前9時15分から手術です。だから朝食はありません。

顔を洗って歯を磨いて髭を剃って。念の為ICUに持っていく荷物を確認しておきます。後はやることがないので指示があるまでベッドの縁に腰掛けて外を眺めていました。手術まであと1時間というのに、正直自分でも驚くほど落ち着いていました。

8時頃、手術用のガウンを持って看護師さんがやって来ました。これに着替えます。

術前術後衣というやつで形状はガウン状なんですが、前後が縫い合わせてありません。肩とサイドの部分にスナップボタンがいくつか付いているだけ。その年代だとピンとくるでしょうが、かつてお笑いウルトラクイズでダチョウ倶楽部が逆バンジーをする時に来ていたお約束衣装です。おそらく手術台の上でベリベリっとはぎ取れるように作ってあるのでしょう。着るのは手術室へ行く間だけのようです。

素材は何か知りませんが、やけに重い服でした。ずっしりしています。「この服、セクシー需要でも売れそうだな」なんて馬鹿なことも考えながら着替えます。

まだまだ時間があるので再びぼーっと窓の外を眺めて待っていると、やたら大きなワゴンをガラガラと引いて看護師さん登場。預ける荷物を入れるワゴンのようですが妙にでかいです。5人分くらい入りそう。ホテルとかで見かけるリネンワゴンと似ています。ああ、そうか。リネンワゴンの使いまわしなのかな。ICUに持っていく荷物とともに看護師さんに預けます。

動けるようになった後、検査や買い物などで重宝するかなと思って小さめのボディバッグを持ってきていたので、そこに貴重品のスマホと財布をしまいます。あとで母が来たら持って返ってもらいましょう。

そういえば母が遅いなと思っていたら、8時30頃に既に到着して患者サロンで待機していたそうです。やはり病室には中々入れてもらえないようですね。

9時少し前にいよいよ手術室に向かいます。心臓手術ともなるとベッドでガラガラと行くイメージありましたけど、普通に歩いて向かいます。患者とスタッフ専用のエレベーターで手術室のある階へ。足取りもそこそこ軽く手術室へ到着です。

付き添いはここまで。この日顔を合わせたのは本当に手術室へ向かう3分くらいでしょうか。この後手術室から出てくるときにも会ってるんですが、もちろんその時は私は麻酔が覚めていないので知りません。

「いってきま~す」といつもと同じような挨拶で別れて入室です。口調が軽いのは強がりでもなんでもなく、気持ち的には本当にそんな感じだったから。「いってきます」の漢字がどうなるかは神のみぞ知る。

でも本当にここまでは、魚の目でも取りに来たくらいにカジュアル感が漂っていました。不安ゼロ。

盛っていません。本当に気持ちが凪いでいた。

自分、本当は大物かもしれない。

空気が少し変わるのは手術室への大きな扉を開けて部屋に入ってからでしょうか。まだ手術をする場所ではなく、前室のようなところに置いてある長椅子に座らされました。病院ではお馴染みの名前と生年月日の確認です。そこでほんの少し待ちます。

私の手術をしてくれるのであろうスタッフの皆さんが忙しそうに準備をしている様子が見えます。奥に目をやると、手術台が見えます。「ああ、あそこで手術をするんだなあ」とか考えるとお思いでしょうが、多分このとき何も考えていない。なんだろう、ぼーっとしていた。

緊張でもリラックスでもない。ただぼーっとしていた。生まれて初めてかもしれない「無」の心境。あのとき手を横に広げたら飛べたかもしれない。

手術室のライト

「さあ、いきましょうか」と言われて立ち上がります。「行くの?逝くの?」ってブラックジョークを言っても良かったんですが、口頭では伝わらないから言いません。

手術台まで自分の足で歩いていって、まるで夜、床につくように横になります。尻から座ってゴロンって。ゴロン後に早速わさわさと準備が始まります。

左手の手首の動脈に血圧測定用のカテーテルを入れます。動脈まで深く指すためきちんと局所麻酔をしてからブスッと刺します。

ところがどうも様子がおかしい。よくあるパターンですが、最初1人でやっていたのにドンドン応援が増え、最終的に3人でやいのやいのしています。どうやら、私の手首の動脈は針が刺しにくいらしい。静脈はこんなにモリモリ浮き出ているのになんてことでしょう。

何度かブスブスと刺し直しています。もちろん麻酔が効いているので痛みはありませんがちょっと不安です。何か「並走」とか「角度が」とか聞き取れましたが何のことやら。そのうち「あ、これこれ、この角度」とか言い出しました。見つかったようです。

いいのか、そんな昭和の室内アンテナみたいなやり方で。

そうこうしていると口にマスクをつけられます。コロナでおなじみのマスクじゃないですよ。あのお椀型の酸素を吸うためのマスクですよ。

「普通に呼吸して下さい」

普通に呼吸しようとしますが、少しだけ吸いづらさを感じます。無味無臭。このタイプのマスクは初めてですが、ああこんなもんなのか、と特に感慨もなし。

よくドラマや映画なんかでは、手術が始まる前は徐々に「ウツラウツラ」みたいな演出がありますが、そんなものはなし。意識は直前までハッキリしています。

左手のカテーテルはしっくり来ないのかまだ何かやっています。大丈夫かな?なんて思っていたら、

黒

続く。